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<title>昭和天皇を護った二人のキリスト者（上）</title>
<description> 昭和天皇を護った二人のキリスト者（上）‥H17スクラップ  占領軍司令部の中でフェラーズはただ一人、昭和天皇を戦犯裁判から護らねばならないと考えていた。　　　　　 H17.03.27========================================================================■１．「ミチ・カワイという女性を探して欲しい」■  昭和２０(1945)年８月３０日、厚木飛行場に着陸した飛行機から、マッカーサーがコーンパイプをくわえてタラップを降りた。
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<![CDATA[ 昭和天皇を護った二人のキリスト者（上）‥H17スクラップ<br /><br />  占領軍司令部の中でフェラーズはただ一人、昭和天皇を戦犯裁判から護らねばならないと考えていた。<br />　　　　　 H17.03.27<br />========================================================================<br /><br />■１．「ミチ・カワイという女性を探して欲しい」■<br /><br />  昭和２０(1945)年８月３０日、厚木飛行場に着陸した飛行機から、マッカーサーがコーンパイプをくわえてタラップを降りた。続く幕僚たちの中に４９歳のボナー・フェラーズ准将がいた。<br /><br />  一行は車を連ねて横浜のホテル・ニューグランドに投宿した。フェラーズはさっそくホテル側に、「東京にいるミチ・カワイという女性を探して欲しい」と頼んだ。すると意外なことに、支配人の中山武夫が「ミチ・カワイ」を知っているという。中山は以前、商社の米国駐在員としてニューヨークに長く暮らしたことがあり、その英語力を買われて、占領軍の応接役のマネジャーとして雇われ、今日が出社初日だった。<br /><br />  不思議な縁に驚きながら「ミチ・カワイとはどういう知り合いかね」とフェラーズが尋ねると、中山は「十年ほど前に河井先生がニューヨークで講演をなさった時に、私の女房がお世話をさせていただきました」と答えた。河井は無事で、恵泉女学園を経営しているという。<br /><br />  フェラーズが早速、手紙を河井あてに届けさせたのは９月３日。この日はちょうど恵泉女学園の２学期の始業式で、河井は学校にいた。まるで天が後押ししているようなとんとん拍子である。河井はすぐに英文の返事をよこした。<br /><br />  あの恐ろしい戦争の日々、私たちは何度、あなたのことをうわさし合ったことでしょう。あなたがご無事でご活躍の様子を知って、こんなに嬉しいことはありません。あなたにお目にかかりたいのはやまやまですが、お願いですから、いましばらく私たちに会いに来ないでください。私たちはいまは、ただただ疲れきって、たとえお目にかかっても、あなたを喜ばせるような姿をお見せできません。[1,p11]<br /><br />■２．「天皇裕仁はルーズベルト以上の戦争犯罪人ではない」■<br /><br />  しかし、フェラーズにとっては、そんな悠長な事を言ってはいられなかった。やがて始まるであろう戦犯裁判で、彼は昭和天皇を護らねばならないと考えていたからだ。それは極めて困難な仕事だった。<br /><br />  アメリカのある世論調査では、天皇を死刑にすべきだという意見が３３％を占め、それを含めて７０％が何らかの処分を求めていた。さらにオーストラリアとソ連が強く天皇訴追を主張していた。マッカーサー司令部の中でも、フェラーズ以外の全員が天皇を起訴すべきだと考えていた。<br /><br />  その中で、ただ一人、フェラーズは「天皇裕仁はルーズベルト以上の戦争犯罪人ではない」と信じていた。家族への手紙では、こう書いたこともある。<br /><br />  きょうまで私はルーズベルト大統領がアメリカ国民を戦争に巻き込まないように努力した行動をひとつも見いだすことができない。そうではなくて逆にあらゆる施策がまっすぐ戦争に向けてリードされた。[1,p195]<br /><br />  これは当時の共和党系の人びとの共通認識だったと言える。[a,b,c]<br /><br />  しかし、フェラーズはさらに天皇と日本国民の関係について深い洞察を持っており、そこから日本のためにも、またアメリカのためにも天皇を戦争犯罪者として裁くようなことがあってはならない、と考えていた。そのために協力してくれる日本人として河井道を探していたのである。<br /><br />■３．「教育とはまずよき人間になるために学ぶことです」■<br /><br />  河井道とボナー・フェラーズが初めて会ったのは、大正１１(1922)年４月、東京においてであった。河井は４４歳、フェラーズは２６歳。陸軍中尉だったフェラーズは、赴任地のマニラから休暇を利用して、初めて日本を訪れたのだった。<br /><br />  おりしも桜が満開で、「日本は魅惑的で美しい。神秘に満ちた心温まる国だ」とフェラーズは記している。そこで出会った何人かの日本人の一人に河井道がいた。「ミチ・カワイは傑出している」というのが、彼の印象だった。<br /><br />  明治２４(1891)年、１４歳の河井道は札幌のミッションスクール、スミス塾の５年生だった年に、隣接する札幌農学校（現在の北海道大学）の教授を務めていた新渡戸稲造が出張授業に来るようになった。やがて河井は毎週土曜日の夜に新渡戸の自宅に食事に呼ばれ、その後、新渡戸が英語で口述する日記を筆記するようになった。河井は新渡戸を終世の師と仰ぐ。新渡戸はよくこう説いた。<br /><br />  あなた方は良妻賢母となる前に、一人のよい人間とならなければ困る。教育とはまずよき人間になるために学ぶことです。[1,p40]<br /><br />  明治３１(1898)年、病気療養のために妻の故国・米国に渡る新渡戸に同道する形で、２１歳の河井はアメリカに渡り、奨学金を得て、ブリンマー女子大に学んだ。帰国後、女子英学塾（現在の津田塾大学）の教授となり、英語、歴史、購読を受け持った。同時に、日本ＹＷＣＡの設立に奔走し、初代総幹事となった。その関係で、３２歳から１年半も欧米を回った。<br /><br />  こうして当時の日本人女性としては異例の経歴と行動力を持った河井に、フェラーズは出会ったのである。「ミチ・カワイは傑出している」と思ったのも当然である。<br /><br />■４．ラフカディオ・ハーンに導かれて■<br /><br />  日本に魅惑され、もっと理解を深めたいと思ったフェラーズは、ラフカディオ・ハーン[d]の著作を見つけた。その後、数年で「ハーンの本はすべて読んだ」というほど魅了された。フェラーズは日本を再訪した際には、ハーンの未亡人を訪れ、遺児の面倒まで見るようになる。<br /><br />  フェラーズは後にアメリカ陸軍きっての日本通となり、各種の論文や報告書を書くが、その一つ、対日戦のテキストとして広く読まれた「日本兵の心理」ではおおよそ次のように述べている。まさにハーンの日本観に基づいた見解である。<br /><br />  日本人は祖先は神であると考える。死者に対する尊敬や親に対する孝道が日本人の特色である。<br /><br />  欧米では天皇は現人神としてゴッド・エンペラーなどと訳されおり、「人間をゴッドのように崇める狂信」として反感や警戒心を与えていた。フェラーズは「ゴッド」と日本の「カミ」とは違うことに気がついていた。そこから天皇についても、こう理解した。<br /><br />  天皇は権威の象徴である。明治時代以前は天皇は実際には国を治めていなかった。最強の武家が天皇の上にいて国を統治していた。各武家は天皇を自らの味方につけようと戦った。だがたとえどの武家が天皇を味方につけようとも、国民が最大の敬意を払うのは天皇であり、天皇以上に国民から愛着を持たれる者はこの国には存在しない。[1,p49]<br /><br />  太平洋戦争中、フェラーズは対日心理作戦の責任者となる。そして日本国民に空からビラを撒く作戦を展開するが、そのビラの一つにはこんな文句があった。<br /><br />  今日４月２９日は御目出度い天長節であります。・・・戦争の責任者である軍首脳者はこの陛下の御誕生日の日に戦捷（せんしょう、戦勝）を御報告申し上げる事も出来ず、むしろ自身の無能の暴露を恐れてゐるのでせう。軍首脳部は果たして何時まで陛下を欺（あざむ）き奉る事が出来るでせうか。[1,p144]<br /><br />  国民の天皇への敬意を尊重しつつ、軍首脳部を攻撃するビラは、その戦意を挫く上で多大の効果があった、と東条英機・首相も認めている。<br /><br />■５．日米戦争を避けるために■<br /><br />  河井は昭和４(1929)年４月に恵泉女学園を創設した。米国留学までした河井は当時の女性としては傑出した存在だったが、「女が少しばかり学問に励んだからといって家事ができないなどというのは恥です」と、学生寮では炊事、洗濯からトイレ掃除、風呂焚きまで教えた。教室の窓ガラスを生徒と一緒にせっせと磨き、雑巾を拭いた後が残ると見苦しいと叱って、やり直しを命じた。<br /><br />  第一期生を送り出した昭和９(1934)年４月７日、一通の手紙がアメリカから届いた。アメリカ・キリスト教連合婦人会から、「私たちの国の戦争の風説に反対するために、あなたのメッセージが必要です」との講演の依頼だった。アメリカでの日系移民排斥や日本の満州事変をきっかけに、日米関係は険悪になりつつあった。<br /><br />  師の新渡戸稲造は２年前に渡米して、全米で約百回の講演をこなした。昭和天皇からもじきじきに、両国の和解に骨折って貰いたい、とも依頼された。新渡戸は知人にこう語っている。<br /><br />  本当に陛下は御立派な方だよ。私心なんかこれほどもおありにならない。そういう陛下を戴いている日本は本当に幸せなんだ。[1,p100]<br /><br />  しかし、新渡戸は前年の昭和８年１０月にカナダのビクトリアで客死していた。師の志を継ぐべく、河井は８月から１２月までの４ヶ月間で全米６０余の都市を回り、約２百回の講演を行った。この際に、ニューヨークで世話をしたのが、冒頭、横浜のホテル・ニューグランド支配人の中山武夫夫妻だった。<br /><br />  カンザス市ではエリート養成学校・陸軍指揮幕僚大学に学んでいたフェラーズが河井を迎え、二人は時の過ぎるのを忘れて語り合った。河井はこの時のフェラーズの態度を「実に公平な議論をして、自国の反省すべき点」を語り、日本兵士の忠誠に敬意を表した、と回想している。<br /><br />「公平な議論」とは、ルーズベルト大統領が大恐慌以来の経済的危機を避けるために、さまざまな挑発をしかけている、というフェラーズの認識である。<br /><br />■６．皇室への敬愛■<br /><br />  戦争が始まると、河井はよく生徒たちに「この戦争は間違っている」と語り、憲兵隊に呼び出された事もあった。軍や文部省から御真影（両陛下のお写真）を校内に掲げるよう要請があったが、「校舎があまりにお粗末すぎて、大切なお写真をお預かりするにふさわしい部屋も安全な場所もありません」と、言葉巧みに逃げた。<br /><br />  しかし宮城遙拝では、頭を上げるのが早い、と生徒たちを叱ったりしている。キリスト教徒として、天皇をゴッドのように礼拝はしないが、国民としての心からの敬意は払う、というのが、河井の立場だった。<br /><br />  終戦の日に玉音放送を聞いた時の思いを、後にこう自伝に書いている。<br /><br />  この未曾有の国家的危機に際して、・・・「大道を誤り、信義を世界に失う如き」を戒めよという天皇の父親らしい戒めに対して、国民は孝心を明らかにして従順に従ったのであった。天皇に対する代々の忠誠心は、塵や埃のように一吹の風にあえなく散ってしまいはしない。[1,p179]<br /><br />■７．「私がいの一番に死にます」■<br /><br />  ７百万の日本兵が降伏したなんて、まるで奇跡のようだ。日本を占領するために、どれだけの日米の兵士、民間人の命が犠牲になったか考えてみて欲しい。[1,p209]<br /><br />と、フェラーズは家族への手紙に書いているが、天皇の玉音放送で７百万の将兵がただちに矛を収め、整然と武装解除されつつある姿を見て[e]、フェラーズは「国民が最大の敬意を払うのは天皇」という自分の洞察が正しいという確信を深めた。<br /><br />  ９月１１日、東条英機ら３９人が逮捕された。天皇を護るために早く手を打たねばならない。９月２３日、来日３週間目にようやくフェラーズは河井道と再会できた。<br /><br />「仮にの話ですが、もし天皇を処刑するということになったら、あなたはどう思いますか」と聞くフェラーズに、河井は答えた。<br /><br />  日本人はそのような事態を決して受け入れないでしょう。もし陛下の身にそういうことが起これば、私がいの一番に死にます。・・・もし、陛下が殺されるようなことがあったら、血なまぐさい反乱が起きるに違いありません。<br /><br />  フェラーズは、玉音放送後の整然たる降伏と武装解除を目の当たりにし、さらにこの河井の言葉を聞いて、腹を固めた。もし天皇を処刑したら、日本国内は血なまぐさい反乱で収拾がつかなくなる。占領統治を円滑に進める最善の方法は、天皇を罰することではなく、逆にその力を借りることである。<br /><br />  フェラーズは、マッカーサーに天皇の処遇に関する意見書を早急にまとめるので、ぜひ力を貸して欲しい、と河井に頼んだ。<br /><br />■８．「陛下にお目にかかれて光栄です」■<br /><br />  ４日後、その天皇の姿がフェラーズの目の前にあった。９月２７日午前１０時、昭和天皇が米国大使館にマッカーサーを訪ねたのだった。出迎えたフェラーズに、天皇はトップハットをとり、日本語で「お会いできてうれしい」と挨拶しながら軽くお辞儀をして、手を差し出した。フェラーズは天皇の手を握り、英語で「陛下にお目にかかれて光栄です」と答えた。<br /><br />  後のマッカーサーの証言では、この会見で昭和天皇は「戦争の全責任をとる」と発言して、彼の心を揺すぶった[e]。天皇は深く覚悟されて会見に臨まれたのだが、アメリカ大使館で最初に出迎えたフェラーズの応対は、そのお気持ちをなごませた。天皇は後にフェラーズに次のようなお言葉を伝えられている。<br /><br />  あなたが温かく迎えてくださったときから、私はマッカーサー元帥との関係がうまくいくだろうと思いました。<br /><br />  昭和天皇は、この「温かく迎えた」相手がアメリカ陸軍きっての親日家、知日家である事など予想だにされなかっただろう。まして、彼が天皇ご自身を戦犯裁判から救わねばならないとの覚悟を内心に秘めていたとは。<br />                                         （文責：伊勢雅臣）<br /><br />■リンク■<br />a. JOG(096) ルーズベルトの愚行<br />   　対独参戦のために、米国を日本との戦争に巻き込んだ。<br />   http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h11_2/jog096.html<br />b. JOG(116) 操られたルーズベルト<br />   　ソ連スパイが側近となって、対日戦争をそそのかした。<br />   http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h11_2/jog116.html<br />c. JOG(168) 日米開戦のシナリオ・ライター<br />   　対独参戦のために、日本を追いつめて真珠湾を攻撃させようというシナリオの原作者が見つかった。<br />   http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h12/jog168.html<br />d. JOG(171) 「まがたま」の象徴するもの<br />   　ヒスイやメノウなどに穴をあけて糸でつなげた「まがたま」に秘められた宗教的・政治的理想とは<br />   http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h13/jog171.html<br />e. JOG(034)  敗者の尊厳<br />    「日本破れたりとはいへ、その国民性は決して軽視することができぬ。例へば日本国民の皇室に対する忠誠、敗戦後における威武不屈、秩序整然たる態度はわが国の範とするに足る」<br />    （中華民国国民政府・王世杰外交部長）<br />   http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h10_1/jog034.html<br /><br />■参考■（お勧め度、★★★★：必読～★：専門家向け）<br />　　→アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。<br />1. 岡本嗣郎「陛下をお救いなさいまし―河井道とボナー・フェラーズ 」★★★、ホーム社、H14<br />   http //www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4834250709/japanontheg01-22%22<br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /> ]]>
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<title>昭和天皇を護った二人のキリスト者（下）</title>
<description> 昭和天皇を護った二人のキリスト者（下）‥H17スクラップ  天皇を処刑して、共産革命を引きおこそうとするソ連の野望にフェラーズは立ち向かった。　　　　　H17.04.03 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━■１．マッカーサーへの意見書■  フェラーズは、天皇が帰られた後に、執務室に閉じこもり、マッカーサーへの意見書の仕上げに没頭した。意見書の原稿を書き上げると、すぐに恵泉女学園の河井のもとに届けさせた。河井からの意見
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<![CDATA[ 昭和天皇を護った二人のキリスト者（下）‥H17スクラップ<br /><br />  天皇を処刑して、共産革命を引きおこそうとするソ連の野望にフェラーズは立ち向かった。<br />　　　　　H17.04.03 <br />━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━<br /><br />■１．マッカーサーへの意見書■<br /><br />  フェラーズは、天皇が帰られた後に、執務室に閉じこもり、マッカーサーへの意見書の仕上げに没頭した。意見書の原稿を書き上げると、すぐに恵泉女学園の河井のもとに届けさせた。河井からの意見をもとに修正し、再度チェックを受けてＯＫを貰ったのが１０月１日。翌日、フェラーズは完成した意見書をマッカーサーに提出した。二人の合作と言ってよい。<br /><br />  意見書では、冒頭で「彼らの天皇は、祖先の美徳を伝える民族の生ける象徴である」と、ハーンから継承した天皇観から説き始め、次に今回の戦争に関しては、「天皇が自ら起こしたものではないことを立証しうる」と述べた。続いて、<br /><br />  大衆は、裕仁に対して格別に敬慕の念を抱いている。彼らは、天皇がみずから直接に国民に語りかけることによって、天皇はかつて例がないほど彼らにとって身近になると感じている。和を求める詔書は、彼らの心を喜びで満たした。彼らは天皇がけっして傀儡などでないことを知っている。また、天皇を存置しても、彼らが選びうる最も自由主義的な政府の樹立を妨げることはないと考えている。[1,p225]<br /><br />  最後の一節は、軍国主義を復活させないためには、天皇制を廃止する必要がある、という連合国内の意見に釘を刺したものである。<br /><br />■２．戦争裁判で天皇を裁けば■<br /><br />  無血侵攻を果たすにさいして、われわれは天皇の尽力を要求した。天皇の命令により、７００万人の兵士が武器を放棄し、すみやかに動員解除されつつある。天皇の措置によって何万何十万もの米国人の死傷が避けられ、戦争は予定よりもはるかに早く終結した。<br /><br />  フェラーズは同様の文章を家族の手紙にも書いており、この部分はまさに彼の実感そのままである。<br /><br />  したがって、天皇を大いに利用したにもかかわらず、戦争裁判のかどにより彼を裁くならば、それは、日本国民の目には背信に等しいものであろう。それのみならず、日本国民は、ポツダム宣言にあらまし示されたとおりの無条件降伏とは、天皇を含む国家統治機構の存続を意味するものと考えている。<br /><br />  もしも天皇が戦争犯罪のかどにより裁判に付されるならば、統治機構は崩壊し、全国民的反乱が避けられないであろう。国民は、それ以外の屈辱ならばいかなる屈辱にも非を鳴らすことなく耐えるであろう。<br /><br />  後半は河井道の「陛下が殺されるようなことがあったら、血なまぐさい反乱が起きるに違いありません」とフェラーズに語った言葉に基づくもののようだ。<br /><br />  そして「それ以外の屈辱ならばいかなる屈辱にも耐えるであろう」とは、「堪へ難きを堪へ忍ひ難きを忍ひ以て万世の爲に太平を開かむと欲す」という終戦の詔勅を思わせる。これも終戦の詔勅に関して、「天皇の父親らしい戒めに対して、国民は孝心を明らかにして従順に従ったのであった」と語った河井の思いが反映しているのだろう。<br /><br />  フェラーズの意見書には、河井を通じて、当時の日本国民の天皇への「敬慕の念」が注ぎ込まれていた。<br /><br />■３．「相互の尊敬と信頼と理解」■<br /><br />  彼らは武装解除されているにせよ、混乱と流血が起こるであろう。何万人もの民事行政官とともに大規模な派遣軍を必要とするであろう。占領期間は延長され、そうなれば、日本国民を疎隔してしまうことになろう。<br /><br />  米国の長期的利益のためには、相互の尊敬と信頼と理解にもとづいて東洋諸国との友好関係を保つことが必要である。結局のところ、日本に永続的な敵意を抱かせないことが国家的に最も重要である。<br /><br />  意見書はこう結ばれた。「相互の尊敬と信頼と理解」という言葉には、初めて来日した時に「日本は魅惑的で美しい。神秘に満ちた心温まる国だ」と感じて、河井らとの交友を築いてきたフェラーズの体験が窺われる。そうした友好関係こそ「米国の長期的利益」となる、というのがフェラーズの信条であった。<br /><br />■４．「ソ連は、日本に革命が起きることを望んでいる」■<br /><br />  ２日おいて、１０月４日にフェラーズは第２の覚え書きを提出した。<br /><br />  ソ連は、日本に革命が起きることを望んでいる。我が国（アメリカ）の政策は、革命を期待しているかのようだ。革命には、天皇の排除が最も有効なのである。[2,p89]<br /><br />  当時、ソ連の共産党機関誌「プラウダ」は激しい天皇制批判を繰り返していた。また日本共産党も「戦争犯罪人追求人民大会」を開き、1600人にのぼる戦犯リストの冒頭に昭和天皇を挙げていた。<br /><br />  天皇が戦犯裁判で処刑となり、国中に反乱が起きれば、それが共産革命の引き金になり、日本を共産陣営に追い込む結果となりかねない。フェラーズは危機感を募らせていた。<br /><br />  １０月２日、皇族の梨本宮守正元帥が、そして６日には元首相・近衛文麿、天皇側近の内大臣・木戸幸一が戦犯容疑で逮捕された。皇族と側近にまで逮捕の手が伸びていた。<br /><br />■５．マッカーサーの回答■<br /><br />  １１月２９日、アメリカの統合参謀本部は、マッカーサーに対して指令を伝えた。<br /><br />  裕仁は、戦争犯罪人として逮捕・裁判・処罰を免れてはいないというのが米国政府の態度である。天皇抜きでも占領が満足すべき形で進行しうると思われる時点で、天皇裁判問題が提起されるものと考えてよかろう。[2,90]<br /><br />  米国政府は天皇訴追を十分ありうるものとして、マッカーサーに判断に必要な証拠の収集を命じた。この回答として、翌昭和２１(1946)年１月２５日、陸軍参謀総長アイゼンハワーあてに電報が送られた。<br /><br />  過去十年間に、程度はさまざまであるにせよ、天皇が日本帝国の政治上の諸決定に関与したことを示す同人の正確な行動については、明白確実な証拠は何も発見されていない。<br /><br />と始まるこの回答で、まず大日本帝国憲法はヨーロッパの立憲君主制と同じ原則に則っており、内閣が行った政治的決定を天皇は裁可するだけで、拒否する権限はなかった事が説明されている。<br /><br />  昭和天皇は立憲君主の立場をよくわきまえ、可能なかぎりその原則に従って行動した天皇だった。帝国議会の議決を裁可しなかった例は一度もなかったし、国務大臣の補弼（ほひつ）を俟（ま）たずに大権を行使する独断政治を強行したこともなかった。<br /><br />  つけ加えれば、日米開戦までの過程で戦争を避けるために、自らの立場で可能な範囲で軍部や内閣に意見を述べている。昭和天皇は決して好戦主義者ではなかった。外交交渉を優先させることで、なんとか戦争を回避しようと努力した。<br /><br />  最後の一節には、また河井道の影響が窺われる。河井はフェラーズに勅語や御製を示して、天皇の平和を求めるお気持ちを伝えていた。恐らくは、開戦前の御前会議で昭和天皇が「四方の海みなはらから（同胞）と思ふ世になど波風の立ち騒ぐらむ」との明治天皇御製を示されて、再度の外交交渉を求められた事もその中にあっただろう。<br /><br />■６．「あれはカワイ・ミチから授かったものだ」■<br /><br />  続いて、回答書では天皇を訴追した場合に、「日本国民の間に必ずや大騒乱を惹き起こし」、そのような事態に対処するには、百万の軍隊と数十万の行政官が必要となる、としている。主張の内容は、フェラーズの覚え書きをそのまま引き写したものである。<br /><br />  マッカーサーはフェラーズの覚え書きを机の左の引き出しの一番上に入れ、しばしば取り出しては読んでいた。フェラーズは後に語っている。<br /><br />  私はあの覚書の内容について自信が持てなかった。あれはカワイ・ミチから授かったものだ。彼女は実に偉大な女性だった。彼女が私を助けてくれた、彼女は知らないだろうが、マッカーサーの天皇に対する態度に、彼女は大きな影響を及ぼしたと思う。[1,p228]<br /><br />  このマッカーサーの回答書で、米政府の天皇不起訴の方針は固まった。<br /><br />■７．東条の覚悟■<br /><br />  米国はこれで固まったが、ソ連は強硬に天皇訴追を要求していた。３月２日から東京に終結した連合国各国の国際検察局による被告人選定作業が始まった。<br /><br />  フェラーズはこの時期、天皇の無罪を立証すべくあらゆる手を尽くした。３月６日、終戦時の海軍大臣・米内光政を総司令部に呼んで、こう言った。<br /><br />  ・・・ソ連は全世界の共産主義化を狙って、日本の天皇制とマッカーサーの存在を邪魔にしている。アメリカ国内でも上層部に天皇を戦犯として裁くべきだとの主張が相当ある。<br /><br />  その対策としては、天皇が何ら罪のないことを日本側が立証してくれることが最も好都合だ。そのためには近々開始される裁判が最善の機会だと思う。この裁判で東条に全責任を負わせるようにすることだ。<br /><br />  そこで、東条に次のことをいわせてもらいたい。開戦前の御前会議において、たとえ陛下が反対されても、自分は強引に戦争にまでもっていく腹をすでに決めていたと。[1,p266]<br /><br />  米内は「まったく同感です」と賛同し、獄中の東条に弁護人を通じてフェラーズの意を伝えた。東条は答えた。<br /><br />  そんなことは心配ないと、米内君にいってくれ。おれが恥を忍んで生きているのも、この一点があればこそだ。<br /><br />  東条は東京裁判において、大東亜戦争は自衛戦であり国際法に違反していないこと、また開戦の決定は内閣の責任であり、昭和天皇が拒否権を行使されることは、憲法上も、慣行上もなかったことを堂々と述べた。[a,b]<br /><br />■８．「昭和天皇独白録」とバイニング夫人■<br /><br />  フェラーズはさらに次々と手を打っていった。第２の手は昭和天皇ご自身に直接語っていただくことだった。風邪を引いて寝込まれていた昭和天皇に、戦争への関わりと思いを語ってもらい、寺崎英成ら側近たちが記録した。この記録は４４年後に発見されて「昭和天皇独白録」としてセンセーションを起こした。その英語版がフェラーズの残した文庫から発見された。<br /><br />  この文書がどのように使われたのかは分かっていない。ただ、天皇不起訴という決定に対して米世論が反発した場合、あるいは天皇が証人喚問された場合には、この文書が使われただろう。[2,p149]<br /><br />  フェラーズがもう一つ打った手は、皇太子にアメリカ人女性の家庭教師をつけることだった。それによって欧米の世論を軟化させようというのが、狙いだった。フェラーズが選んだエリザベス・バイニング夫人は、彼と同じクエーカー教徒であり、また夫人の児童文学者としての才能と評判を彼はよく知っていた。<br /><br />  バイニング夫人は４年間、皇太子の家庭教師を務め、帰国後の1952年に著した『皇太子の窓』はアメリカでベストセラーとなり、皇室に対するアメリカ人のイメージを変えるのに大きな役割を果たした。<br /><br />■９．「天皇陛下を戦犯より救出したる大恩人」■<br /><br />  東京裁判開廷から２ヶ月過ぎた昭和２１(1946)年７月、フェラーズは陸軍を退役して帰国の途についた。その際に、次のような手紙を、天皇の側近・寺崎英成に書き送った。<br /><br />  あなたの有能な上司、すなわち天皇陛下に次に会うとき、私の気持ちをぜひ伝えてください。私が日本を去るのは、私が日本にいるよりもアメリカに帰った方が、日米両国の相互理解の増進により多くの貢献ができると確信したからです。天皇陛下に心からの敬意を払っています。[1,p273]<br /><br />  フェラーズはこの言葉通り、帰国後は全米各地を回って極東問題やソ連についての講演を行い、雑誌に記事を投稿した。<br />『リーダーズ・ダイジェスト』1947年７月号には、『降伏のために戦った天皇裕仁』と題して、昭和天皇を讃えた。その中ではソ連が東洋における支配的地位を狙って、日本からの和平斡旋の依頼を握りつぶして、戦争を長引かせ、自らに最も好都合な時に対日戦を始めた事を指摘した。<br /><br />  1950年２月、ソ連は突如として天皇を細菌化学戦争の計画立案に関わった罪で「追加戦犯」として、国際軍事法廷で裁くことをアメリカに求めた。しかし米国は解決済みの問題として、これを黙殺した。<br /><br />  昭和４６(1971)年２月、日本政府はフェラーズに対して、勲二等瑞宝章を贈った。その申請書にはこう書かれていた。<br /><br />  ボナー・フェラーズ准将は・・・連合国軍総司令部に於ける唯一の親日将校として天皇陛下を戦犯より救出したる大恩人である。[1,p190]<br />                                         （文責：伊勢雅臣）<br /><br />■リンク■<br />a. JOG(121) 笹川良一（上）<br />   　獄中の東条英機に命をあきらめて国家を弁護せよと叱咤した男<br />   http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h12/jog121.html<br />b. JOG(122) 笹川良一（下）<br />   　東京裁判での罪なきＢＣ級戦犯釈放に奔走<br />   http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h12/jog122.html<br /><br />■参考■（お勧め度、★★★★：必読～★：専門家向け）<br />　　→アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。<br />1. 岡本嗣郎「陛下をお救いなさいまし―河井道とボナー・フェラーズ 」★★★、ホーム社、H14<br />   http //www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4834250709/japanontheg01-22%22<br />2. 東野真「昭和天皇二つの『独白録』」★、日本放送出版協会、H10<br />   http //www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4140803819/japanontheg01-22%22<br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /> ]]>
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<title>中国人と日本人の死生観の決定的な違い</title>
<description> 中国人と日本人の死生観の決定的な違い‥スクラップ‥H18      日本人と中国人の決定的な違いは死生観にある。　　　　　 H18.12.17 ------------------------------------------------------------■１．日中でまったく異なる「医食同源」■  台湾で中国医学を学んだ後、東大で医学博士号をとり、現在は栃木県で地域医療に携わっている林建良医師は、「医食同源」の理解が、日本と中国ではまったく異なる、と指摘している。[1,p16]  
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<![CDATA[ 中国人と日本人の死生観の決定的な違い‥スクラップ‥H18<br />    <br />  日本人と中国人の決定的な違いは死生観にある。<br /><br />　　　　　 H18.12.17 <br />------------------------------------------------------------<br /><br />■１．日中でまったく異なる「医食同源」■<br /><br />  台湾で中国医学を学んだ後、東大で医学博士号をとり、現在は栃木県で地域医療に携わっている林建良医師は、「医食同源」の理解が、日本と中国ではまったく異なる、と指摘している。[1,p16]<br /><br />  日本人が考える「医食同源」とは、健康を保つためには、まず食事から正していかねばならない、というものだ。最近流行語となった「メタボリック症候群」に関しても、甘いものや濃い味付けの料理を食べ過ぎると内臓に脂肪がたまって、動脈硬化による心筋梗塞などの病気にかかりやすくなるので、野菜をしっかり食べよう、などと説かれる。<br /><br />  しかし、林氏が台湾の医学部で学んだ漢方医学では、たとえば「肝臓を食べると肝臓に効く」「脳を食べると脳にいい」「心臓を食べると心臓によい」と考える。<br /><br />  中国市場で精力剤として売られているのは「狗鞭（ごうべん）」、犬の鞭、すなわち犬の生殖器である。もっと効くとされているのが「虎鞭（フーベン）」虎のペニスである。犬よりも虎の方が強いからだ。<br /><br />  林氏も高校時代によく頭痛に悩まされたので、台北の中国人の医師にかかり、漢方薬とともに豚の脳を煎じて飲まされた。<br /><br />  病んだ臓器に近い臓器ほど、そして人間に近い動物ほど、体に良いとする。これが中国人の考える「医食同源」である。その究極は何か、と言えば、人体そのものということになる。<br /><br />■２．人体も薬■<br /><br />  中国医学で最も権威ある書物とされているのは、明時代の1578年に執筆された『本草綱目』である。「本草」とは基本的に薬用になる植物をさすが、薬とされる範囲は、鉱物や動物にも及ぶ。そして、最後に出てくるのはなんと「人部」、すなわち人体を薬剤として扱う章である。そこでは、髪の毛、尿、唾、汗、骨、生殖器、肝臓などの効用が細かく書かれ、たとえば「瘧（おこり、マラリア）は、生の人の肝臓１個を陰干しにして、その青い部分が効く」などと説かれている。<br /><br />  この「医食同源」の概念は、専門の医学書だけではなく、広く一般庶民の生活にも浸透している。昔から子供向けの教科書として使われていた『二十四孝』は、２４種類の親孝行の例を示したもので、その一つに「割股療親」がある。子供が自分の太ももをえぐって、病気の親に食べさせて、療養することを、親孝行として勧めているのである。<br /><br /> 「医食同源」の考えは近代になっても根強く残っていた。日露戦争中に日本に留学し、その後作家として活躍した魯迅の作品『薬』の中には、女性革命家が公開処刑される際に、民衆が手に手に饅頭を持って集まる、というシーンが出てくる。処刑された瞬間に吹き出る血を、饅頭に染みこませて食べる。新鮮な血は体によいという「医食同源」の発想である。<br /><br />  中国人は「四つ足で食べないのは机だけ」と揶揄されるほど、何でも食べ物にしてしまう。そして「医食同源」だから、何でも薬と考える。自らの体のためには、人間を含む他の生命はすべて食べ物や薬として見なすのが、中国人の哲学なのである。<br /><br />■３．『共産党の慈善事業』(Communist Charity)■<br /><br />  人体を薬にするのが、内科的「医食同源」なら、外科的「医食同源」が臓器移植だろう。金儲けの天才である中国人は、死刑囚から臓器をとりだして売買するビジネスを発明した。<br /><br />  アメリカに移住した中国人・呉宏達（ハリー・ウー）氏は、自分の家族に臓器移植を希望しているとの触れ込みで、数度、中国に潜入し、臓器売買の実態を調査して、レポートを出版した。その題名がふるっていて『共産党の慈善事業』(CommunistCharity)という。<br /><br />  ウー氏は、1995年にアメリカのパスポートで中国に入国した際に、スパイ容疑で逮捕されたが、アメリカ政府の圧力で釈放された。この事件をきっかけに、中国における臓器売買はアメリカの国会でも注目され、数度にわたる公聴会が開かれた。国会の提案により、江沢民主席が1997年に訪米した際に、クリントン大統領が問題提起している。同時期に、アメリカのＡＢＣテレビが『血なまぐさい金』(Bloody Money)という題名で、ゴールデン・アワーに全米に放送した。<br /><br />  ウー氏の調査によると、臓器売買は次のようなシステムで行われている。まず死刑は祝日の前日に予定される。中国では８０年代以前までは公開処刑が一般的で、国民がお祭り気分で見る娯楽の一種であったからだ。<br /><br />  次に刑務所では、肝炎やエイズなどの事前チェックを行い、病院側が注文した臓器に合った死刑囚を選ぶ。さらに臓器は新しいほどよいので、刑場には医者が待機していて、死刑執行されるや臓器を取り出し、病院に運んで、移植手術を行う。<br /><br />  死刑執行前に臓器を取り出してしまうケースもよくあるという。ウー氏のレポートでは、ハンブルグに脱出した中国人医師が実名と写真入りで、死刑執行の前日に何度も肝臓を取り出したと証言している。その犠牲者のひとりは、思想問題で死刑とされた１９歳の女性で、死刑執行する前に、待機する車の中に彼女を強引に押し込み、麻酔無しで腎臓を取り出したという。<br /><br />■４．政府と軍のビッグ・ビジネス■<br /><br />  国際人権団体アムネスティ・インターナショナルの調査によれば、2004年の世界における死刑執行件数は約5500件で、そのうちの3400件、６２パーセントが中国である。そのうちのかなりの件数で、臓器が取り出され、役人の収入源になっていると思われる。<br /><br />  病院が処刑された死体に支払う値段は、３００元(4500円)から６００元(9000円)。そこから取り出された臓器は、１２万元(180万円)から１５万元(225万円)に跳ね上がる。外国人相手に売られるときは、その倍になるという。仮に２００万円で３千件の臓器売買が行われたとすれば、総額６０億円のビッグビジネスということになる。<br /><br />  林医師は、糖尿病の治療を専門としているが、患者の中には腎不全から人工透析を余儀なくされている人も少なくない。そのうちの一人が「臓器移植を中国で受けたい。紹介してくれないか」と頼んできたことがあるという。なぜ中国なのかと訊くと、「すぐに移植できるし、若くて健康な腎臓だと聞いている」と答えた。このように、中国に渡って臓器移植手術を受ける日本人患者も少なくない、という。<br /><br />  臓器移植をする病院は、ほとんどが人民解放軍や政府機関の病院である。中国司法部（法務省に相当）は、1981年６月１３日付で「死刑囚の臓器摘出に関する注意事項」という秘密文書を出し、その中で「医者が車を使う場合は、医療機関のマークを隠すこと」「摘出した死体は速やかに処理するため火葬に付すこと」などと指示している。臓器売買は、政府と軍が深く絡んだビジネスになっているのである。<br />    <br />■５．「あんなものは、いくらでも手に入る」■<br /><br />  林医師自身も、こんな体験をしている。２０年ほど前、東大で研究していた時、中国の蘭州大学で血液学を教えていた教授が留学に来ていた。当時は、骨髄移植が始まって数年しか経っていない時期で、最先端の医療技術だったが、彼は「こんなことは、中国ではとっくにやっている」と言った。<br /><br />  林医師がすぐには信じられずにいると、彼は「胎児の肝臓を使うのだ。胎児の肝臓を取り出してすりつぶし、メッシュで濾過したものを点滴すれば、骨髄移植と同じような効果がある」と説明した。<br /><br /> 「では、どこから胎児の肝臓を手に入れるのか？」と訊くと、彼は笑いながら「あんなものは、いくらでも手に入る」と言い放った。<br /><br />  そのときに私は、さすが中国は世界一人口の多い国だから、胎児を手に入れることはたやすいのかもしれないと思ったが、「あんなもの」として命を軽んじ、恐ろしいことを平気でやるのが中国人だということを改めて認識した。<br /><br />  その教授が「いくらでも手に入る」と言ったときの乾いた笑い声は、いまだに耳から離れない。[1,p23]<br /><br />■６．実験動物の慰霊祭を行う日本人■<br /><br />  林医師は台湾の学校で、日本人が残酷で残忍であると教えられてきた。国民党政権下での反日教育の一環であった。ビデオショップで借りたヤクザ映画を見て、指を詰めるシーンや喧嘩の場面が出てくると、日本人はやはり残忍なのだと自分なりに納得していた。<br /><br />  その後、東大に留学すると、実験材料としてしばしばマウスやラットを使うことがあった。その最初の時に先生から教わったのは、いかに実験動物を苦しませず処置するかということだった。<br /><br />  また日本では、年に１回、必ず実験動物の慰霊祭を営むが、台湾の大学ではやらないことだった。林医師は、日本人の命に対する畏敬の念がこのような実験動物までにも及んでいることを知って感銘を受けた。<br /><br />  胎児を「あんなもの」と言い切る中国人と、実験動物の慰霊祭を行う日本人と、その生命観の違いは対照的である。<br /><br />■７．「いかにしてきれいに死ぬのか」を考えている日本人■<br /><br />  林医師が栃木県の片田舎で開業してから、改めて感じたのは、日本人の生活では死に直面する機会が多いということだった。病院の職員が近隣の葬式の手伝いに行くので休みをとる。台湾では、葬式で休むのは、家族が亡くなった時だけだ。<br /><br />  地方の新聞では、有名人に限らず庶民に至るまで亡くなった人が紹介されている。葬儀の日時、場所も書かれているので、故人と多少なりとも縁のあった人は誰でも参列できる。台湾では、葬儀に参列できるのは、遺族から招待された人だけだ。<br /><br />  林医師は、日本の葬式は質素で整っており、美しいと感じた。そして、最後のお別れということで、すべての参列者に顔を見せ、触らせもする。そして「ああ、いいお顔ですね」と言って慰める。これも台湾にはない習慣である。<br /><br />  苦悶せず、従容として死んでいった様を確かに拝見しました、と遺族に伝え、それが遺族にとっては最高の慰めになる。この事から、林医師は、日本人がきれいに死ぬことを大切にしているのだと感じた。武士の切腹はその延長にあるものだ。<br /><br />  こうした経験から、林医師はこう考える。<br /><br />  日本人は死を意識しながら生きている民族であり、日常的に経験する死の場面を文化にまで昇華させているように思われる。そのせいか、世界第２位の経済力を持ちながらも、日本人一人ひとりの現世に対する執着心はそれほど強くないように見受けられる。日本人は常に無常観を抱えて生きているようだ。・・・<br /><br />  日本人は生きているうちに一生懸命に仕事をして世界最高レベルの技術を創出しつつ、一方では、自然の摂理に融け込みながら、死を生活の一部として淡々と取り入れ、自分が人生の最終局面に向かい合うときにはいかにしてきれいに死ぬのかを考えているようである。[1,p97]<br /><br />■８．日本人と中国人の決定的な違いは死生観にある■<br /><br />  林医師は、日本人と中国人の違いを次のように捉える。<br /><br />  日本人と中国人の決定的な違いはどこにあるのかといえば、それは死生観にあるといってよい。死に対しての考え方や死に直面したときの態度は明らかに違う。日本人はきれいに死のうとし、中国人はいかにして死なないようにするか、という考え方に歴然と現れている。[1,p91]<br /><br />  その昔、秦の始皇帝は３千人の男女を東の島「蓬莱」に派遣して、不老不死の仙薬を求めたという伝説がある。その「蓬莱」とは日本の事だという説があるが、逆に日本人からしてみれば、それほどまでして不老不死に執着する気持ちは理解し難い。<br /><br />  現世に執着する中国人は、自分の生命と金を最も大切なものと考える。自分の健康のためには他人の人体を薬にしたり、金儲けのために平気で死体から臓器を取り出す。こうした姿勢からは、他の生命への畏敬は生じない。<br /><br />  中国人とは対照的に、日本人は絶えず死を見つめ、このはかない命をいかに美しく生きるか、と考える。財産や権力など死んでしまえば、何にもならない。それよりも世のため人のために多少なりとも尽くして満足して死に、葬式にはたくさんの人に来て貰い、「ああ、いいお顔ですね」と言って貰うほうが、はるかに意味のある人生だと考える。<br /><br />  また生命のはかなさを感ずる所から、他の人や動植物の生命への思いやりが生ずる。さらには人の生命を守るために、自らの生命を捧げる、という自己犠牲の精神もそこから生まれる。特攻隊員たちの自己犠牲は、その最も純粋な形であった。[a]<br /><br />■９．樹を植える日本人、樹を伐る中国人■<br /><br />  日本の台湾統治は明治２８(1895)年に始まるが、明治３９(1906)年から造林事業を奨励し、毎年１００万本余の苗木を無償で配布し、補償金まで交付した。日本統治前の清朝時代に、ほとんどの樹木が伐採されて、ちょっとした雨でも大水や山崩れが起こっていたためである。計画的に整備された都市の道路は、樹を植えられて美しい並木道となった。[b]<br /><br />  しかし、戦後、蒋介石の軍隊が台湾に入った時、都市道路の並木はすべて切られてしまった。木の陰に誰が隠れているか分からないので危険だ、というのと、伐った並木は薪にできるから一石二鳥という理由だった。<br /><br />  樹木の生命は人間より長い。植林したところで、自分が生きている間に利用できるとは限らない。それでも日本人は百年後、千年後のために黙々と樹を植える。ところが、中国人は樹齢何千年の巨木であろうと、美しい並木であろうと、自分が薪として使いたいとなれば平気で伐ってしまうのである。<br /><br />  われわれ台湾人は、そのような日本人と運良く５０年間を暮らし、そのような中国人と不幸にして６０年間付き合わされ、併呑の危機にもさらされているのである。[1,p90]<br /><br />                                         （文責：伊勢雅臣）<br /><br />■リンク■<br />a. JOG(153) 海ゆかば～慰霊が開く思いやりの心<br />  慰霊とは、死者のなした自己犠牲という最高の思いやりを生者が受け止め、継承する儀式である<br />   http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h12/jog153.html <br />b. JOG(145) 台湾の「育ての親」、後藤新平<br />  医学者・後藤新平は「生物学の法則」によって台湾の健全な成長を図った<br />   http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h12/jog145.html<br /><br />■参考■（お勧め度、★★★★：必読～★：専門家向け）<br />　　→アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。<br /><br />1. 林建良『日本よ、こんな中国とつきあえるか？　台湾人医師の直言』★★★、並木書房、H18<br />http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4890632018/japanontheg01-22%22<br /><br /><br /><br /><br /> ]]>
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